記憶

白いモヤの中に、三つの影があった。そして、また闇夜に包まれた。どれほどの時間が経ったのか、自分ではわからなかった。ただ、闇夜の一点から広がるまぶしい明かりを取り囲むように、3人の人影が逆光の中にあった。だんだん焦点がはっきりすると、それは、見覚えのある父、兄、姉の不安そうに覗き込む顔だった。母は、1年前に他界していた。
 「誰だかわかるか?どこだかわかるか?」「うん、おとうちゃんだ。」父の最初の問いかけに、そう返事した。兄が、唇を噛み締めて押し黙っていた。姉が、目頭を手で抑えていた。2月に入ったばかりで、病室には暖房のぬるい空気が停滞していた。
 3日前の朝、建設会社に現場管理者として働き、出勤しようといつものようにバイクで出かけた。毎日の残業で疲れた体を引きずりながら、シートに跨った。いつもの道を5分ほど走ると、左に曲がるゆるいカーブで前輪が滑った。冷たいアスファルトがヘルメットをめがけてぶつかってきた。そして、暗闇に包まれて記憶がなくなった。
……………
「わ…か…きこ…え・か…」
 見知らぬ誰かの問いかけに返事をしたが、言葉かうめきかわからない音を発するだけだった。そして、また、闇の中に包まれた。

ベットの周りにいる家族の不安に曇った顔の意味が、最初わからなかった。やがて、手を動かし、体を触ると少しずつ事態が飲み込めてきた。体の脇の下から腰までを硬い石膏でぐるぐる巻きにされて、身動きが取れないでいた。そして、足が動かなかった。家族から、事故で病院に運ばれてきた事を聞き、やっと状況が飲み込めた。ベットの上で、少しずつ記憶を手繰り寄せながら絡まった糸を解こうとするけど、一向にあの場面まで来ると、ぷっつりと糸が切れて思い起こすことが出来なかった。毎日残業続きで働き詰めだったから、きっと神様が休暇を与えてくれたに違いないと考えていた。体のどこにも痛みを感じていなかった。ベットに横たわったまま、窓から射し込む温かい日差しを頬に感じると春風に誘われているようで、すぐに全快して、また、バイクに乗ってツーリングにいきたいと、のん気に考えていた。医師から病状を説明されたがピントこなかった。背骨を骨折しているため、足が動かない事だけはわかった。この病院では対応できないので、大学病院で手術を受けるため転院する事となった。5時間に及ぶ手術を終え、集中治療室の中で目覚めると、体中にたくさんの管や点滴や計測機器が取り付けられていた。手術中横向きに寝かされていたらしく、肩の痛みが手術の痛みに勝っていた。一般の病室に戻ると、いつしか春の陽気を告げていた。事故3ヶ月近く、ただベットの上で生活していた体はやせ細り、67kgあった体重は39kgまで落ちていた。
 ある回診の日、医師がベッドサイドに来て言った。「君の足は、もう動かない。」「はい」と返事をしてみたがこの言葉の重みを十分に理解していなかった

どういう根拠か知らないが、この時思っていたのは、今の医学では治らないが、将来、きっと脊髄を修復できる技術が開発され、再び峠道をバイクでツーリングできる日が来ると信じていた。それまでは、車椅子の生活になるだろうから、来るべき日のために体力を蓄えて、誰よりも車椅子を上手に乗りこなしてやろうと考えた。
 ベットの上でリハビリが始まった。
 リハビリの先生がベットサイドに来て、2kgの砂袋を渡すと、持ち上がるように言った。最初、冗談かと思った。2kg程度のものが持ち上がらないはずはない。しかし、持ち上がらなかった。何度も何度も繰り返して、額から滝のように汗を流しても砂袋はピクリとも動かなかった。信じられない衝撃と情けなさで、その日一日、呆然とした。翌日、1kgの砂袋が用意されると、これを持ち上げた。この日から、将来の希望へ向かって、生き続けるためのリハビリが始まった。更に、一週間に1kgずつ増やすと言う目標を自分自身に課した。突然仕事をさせられた筋肉は、夜になると悲鳴をあげていた。看護師にシップ薬を背中に貼ってもらうと、少しだけ気分が楽になった。
 5月17日、車椅子にのり、廊下の突き当たりにある小窓から家のある方角を眺めていた。一年前に他界した母の命日で、親族が集まって一周忌の法要を営んでいるはずだった。大腸がんで亡くなった母には、いつも心優しく温かく見守られていた。叱られた記憶など一度もないほど温厚な母だった。「お母ちゃん、ごめん…」そう言って、両手を合わせると、搾り出すような涙がにじみ出た。法要の席にいないことでの謝罪なのか、せかっく健康な体で生んでくれたのにキズをつけてしまったことへの謝罪なのかわからなかったが、ただその一言だけが口からでた。

ベットサイドのリハビリから、車椅子に乗り移り自由に動けるようになると、リハビリ室で筋力トレーニングを始めた。自分自身に課した、砂袋の一週間で1kg増は、守られ続けていた。そして、リハビリ室で最大の12kgの鉄アレイを片手ずつに持ち、筋肉をいじめ続けていた。ある訓練日に、リハビリの先生が中古だけど履いてみないかといって、革靴にアルミの棒がついた装具を差し出した。初めて見る補装具に戸惑いながら、動かない両足に装着してもらった。平行棒に掴まり立ち上がった瞬間、あの忌まわしい事故以来ついぞ夢見ていた懐かしい光景が甦った。それまで、120cm視界でしかものを見ることの出来なかった風景は一変した。立ち上がった瞬間、体中が緊張して熱くなった。体重を乗せた両足は、頼りなくふらつきながらも確かに自分の体を支えていた。「ちゃんと、立ってる?真っ直ぐ立ってる?うわぁーすごい、すごい。」満面の笑みを浮かべたまま、横を見ると先生の笑顔がいつもの3倍くらい眩しく見えた。きっと、先生は、リハビリを担当してから、心から笑って満面の笑みを浮かべている患者の姿を、初めて目の前に見たのだと思う。172cmの視界は、いつも見上げていた先生の顔を見下ろし、窓から見える景色は、雲と空だけだったそっけない風景が、木々や芝生の色とりどりの鮮やかな貼るの装い包まれた庭をみせてくれた。平行棒の中を歩いた。歩いたというよりも片足ずつ振り子のように前にだすだけだった。補装具をつけて立つことは、骨を脆くさせないためにも必要だったが、同時に、二本足で立って歩いた時の記憶を思い出させた。子供の頃、田んぼの中を自由に走り回って、おいかけごっこをしたりじゃれあったりして、日が沈むまで遊んでいたこと。サッカー部で、朝に夕にとボールを追いかけながら練習に汗を流したこと。バイクに乗って峠道を友達と競いながら走り回ったこと。平行棒で歩くと、自分の足がもう二度と動かないこと、歩けないことを自覚したばかりでなく、過去の歩いていたときの思い出までもゲームのようにリセットされて、まるで何も無かったかのような、他人の記憶を辿っているような、胸を圧迫され押しつぶされる感情に襲われ続けた。病室に戻ると、車椅子に砂袋をロープで結び廊下を何回も行ったり来たりした。補装具を持ち出し、消灯になるまで松葉杖をつきながら歩いた。この先に何かがありそうな、なにかが待っているような気がしてひたすらがむしゃらに体を動かした。いつしか、「このままじゃいやだ!」と強く心に念じ、堅実な一歩、揺るがない一歩を踏み出せることを信じて廊下を汗で濡らしながら歩み続けた。

病院の庭先では桜の花が散り、新緑が緑を鮮やかにしていた。
看護師になかなか心を開くことが出来なかった。人見知りが強いせいか、わがままな性格のためか、それとも、自分の怪我が理解されない苛立ちからなのか。ただ、担当の看護師だけには、自分から声を掛けることが出来た。いずれにせよ、誰にも心の拠り所を求められないまま日々が過ぎた。
日記を書いた。日記というよりも、ただの落書きかもしれない。
毎日の訓練のこと、もっとがんばろうとか、今日は失敗したとか、情けないとか、体がきついとか、もうがんばりたくないとか、誰かに甘えたいとか、どうして自分だけがとか、自分の将来とかを書きなぐった。担当看護師はこっそり読んでいた。
ある夜の消灯直後、担当看護師ともう一人がきて、非常灯だけになった外来病棟の待合室に連れて行かれた。そして、
「まいったなぁー、こんなのばれたらクビたよー」
と言って、ラーメンの器を取り出した。
事故の日以来、出前のラーメンを見るのは何ヶ月ぶりだろう。
「うわぁ、すげぇー、ほんとに?いいの?ね、ね、ね?」
何度も念を押すように聞き返すと、器から漏れるあの独特のしょうゆの匂いにむせ返るほど、鼻を近づけ匂いを嗅いだ。スープと麺を一口すすると、口の中がきゅーっと痛くなったかと思うとぶわーっと懐かしい味が一気に広がった。病院食に慣れきった舌は、突然の刺激に口の中で踊っていた。
「うめぇー、すげぇー、うめぇー、うん、うん、」
と、何度も確かめるようにうなずきながら食べると、目からもしょっぱいスープが流れ落ちた。


梅雨に入ると、現状ではこの病院での回復はここまでと判断され、自宅に帰るか、転院してリハビリに専念するかの選択を迫られ、山奥の病院へ行くことを選んだ。
リハビリもさることながら、高圧酸素療法という治療が受けられることも一因になった。
山奥の病院は、高齢者ばかりで、見舞い客もさっぱり来なくなった。
唯一、リハビリが楽しみだった。訓練台では、体感支持の練習や筋力トレーニング。補装具を履き歩行訓練。毎日のように距離を伸ばしていくと、ついには、大粒の汗をかきながら100mを歩いた。車椅子で、病院横の全長100mあまりのスロープを何度も昇り降りし、慣れてくると車椅子に古タイヤをくくりつけて、再び何度も昇り降りした。
夕方になると、夕日に赤く染まった山々を抜ける峠道を散歩した。一般道は、建物の通路と違い、斜めに傾いていたので、気を抜くとガードレールにぶつかり、誤って谷底に落ちそうになった。散歩とは名ばかりの特訓だった。しかし、リハビリの先生との散歩は、夏山の颯爽とした空気に包まれて心地よいばかりでなく、人間の小ささ、自分の器量の狭さ、浅さを痛感させられて肩が軽くなっていった。
夏山の峠道を何十台ものバイクの集団が走り抜けるのを見ると、つい半年前までの自分の姿だったとは、もうとても思い出せないくらい遠い昔の出来事のようで、自分の影をダブらせることすら出来なかった。


人肌が恋しい秋になると、毎日一緒にリハビリで指導し、散歩に付き合ってくれる女の先生と友達以上に仲良くなっていった。休みの日には、車で近くを観光しながらドライブし、ご飯を食べたり、景色を眺めたりしながら、楽しい時を過ごした。晴れ渡る青空の下で、あっという間に過ぎていく楽しい時間は、その夜病室のベッドで、漆黒の空虚に包まれた闇に出迎えられた。女の子と楽しい時間を過ごせば過ごすほど、自分はこの人に何がしてあげられるのだろうか、この人を将来幸せにしてあげられるのだろうか、車椅子に乗った不自由な障害者はこの人の重荷以外になんの役に立つのだろうか。月夜に照らされた病室のベッドに、ススキがうなだれて影を落としていた。
24歳の誕生日が、秋風にさらわれるように過ぎていった。
山々にカザハナが舞う頃には、療養の甲斐なく両足は動かなかったが、リハビリの効果は日常生活動作に対応できるだけの体力と自信をつけさせていた。
12月の足音を聞くと間もなく退院して、自宅に戻ることにした。


迎えにきた父親の車に乗ると、小雨振る中を二人とも遠慮がちに言葉を選んで、弾まないおしゃべりをしながら帰途についた。懐かしい自宅に戻ると、ボケ気味の祖母が
「おかえり」
と言って、出迎えてくれた。皆も、改めて出迎えてくれた。
それぞれの、顔には不安と戸惑いに満ちた表情が、この障害を負った青年の将来を悲観して哀れんでいるように見えた。いずれにせよ、障害者となり両足が全く動かなくなった24歳の青年は、この時、今日、明日をどう生きるかだけを考えていた。
退院してきたからと言って、特別な料理が出てくることもなかった。ただそこには、懐かしい我が家と家族と、普段の食卓があった。
夜、2階の自分の部屋には行けずに、1階の和室の布団に横になった。家族の話し声が聞こえた。時折、父親の怒号が飛び交じった。家族の苛立ちは、自分の胃を熱くした。母親がいれば、母親さえいれば、きっと今、枕もとに座って眠るまで見守っていてくれるはずだ。
「みんな、ごめんね、ごめんね、ごめんね…」
何度も何かに向かって謝りながら、いつしか枕を濡らしたまま深い眠りに就いていた。


夢を見た。何度も同じ夢を見た。子供の頃住んでいた古い家で、子供のままのいとこが何人もいて、車椅子に乗った自分を遊びに誘った。
「だめだよ、足が動かないんだ」
「大丈夫だよ、立ち上がってごらん」
そして、ゆっくり足を動かすと、机に掴まりながら足を震わせて立ち上がった。
「やった、立てた! 足が動くようになった」
「歩いてごらん」
そう促されて、一歩歩みを進めようと頭の中で動け動けと念じると、本当に自分の意志で歩くことが出来た。奇跡のような出来事に全身で喜びを味わいながら子供のように泣きじゃくった。そして、夢から覚めた。
この夢を家に帰ってから何度も見てはうなされ、目覚めて現実に引き戻されると、両足を手で触り、動け動けと念じながら足を動かそうとした。その度に、奇跡のような出来事は夢の中でしか起こらないのだと何度も打ちのめされて深いため息をついた。


年が明けても、特に、何も変わらない毎日の生活と時間だけが過ぎていった。
新しい自分に出会えることを期待したのに、筋力トレーニングだけの日々だった。近所を車椅子で出歩けば、子供の頃から知っているおばさんやおじさんが声を掛けてくれた。
「たいへんだったねぇ。それで、いつになったら直るんだい?」
車椅子に乗っていると、まだ世間では病人やけが人だった。初めのうちは、もう歩けないからと言っていたけれど、あまりにも気の毒そうに見下ろすので、次第に、そのうちとか、時間かかるけどしばらく無理とか言葉を濁していた。


もう二度と歩けないけれど、車椅子に乗って病院から退院し日常生活を送ることは、昔の人には理解の範囲外なのだろうか。
小学生の子供たちは、不思議な生き物を見るように立ちすくんだままじっと見ていた。そして、怖いものを見た後の、追いかけられるかもしれない恐怖で、駆け足で逃げていった。
自分は何も変わっていないのに、世の中が変わってしまったように思えた。
この一年近くの間に一体何が起こったのだろうか。
一年前に二本足で歩いていた男と、今、車椅子に乗ってタバコを買いに来ている男はどれほどの違いがあるというのだろうか。誰か教えてくれないか。


再び、桜が舞い散る季節が来ると、一年前に看護師と一緒に散歩しながら見た並木道を一人で歩いた。もう二度と入院しないと心の中で呟いた。
自動車の運転だけが唯一の救いだった。障害者でも健常者と同じルールの中で対等に楽しめる遊びは、ドライブだけのような気がした。どこへでも自由に行けることのすばらしさは、生きている実感と人間としてのプライドを取り戻せたように感じられた。
しかし、自由に移動すればするほど、必ず不自由がついて回った。
少し喉が渇いたと言って、自動販売機を探しても、車が止められなかった。運良く車を止められても、車椅子を出し入れしている間に後続車にクラクションを鳴らされた。
トイレに行きたいと思ってもどこにもなかった。目的地に向かうためには、障害者用トイレのある場所を確認してからでないと移動出来ず、遠回りになることもよくあった。
公共建築物のトイレを見つけて入ると、物置のように雑然といろいろなものが押し込まれていた。カギを掛けて入れない所もあった。
ご飯を食べようと飲食店の駐車場に車を止めて、中に入ろうとしても階段があった。
スロープのある店に入って席に就いたら、そこは以前車椅子にガラスを割られたから他の席にして欲しいと言われた。
スーパーで買い物をしていると、興味本位で近づいてきた子供に、お母さんが近寄るんじゃありませんと子供をたしなめていた。
障害者用の駐車場が一杯なので順番を待っていると、健常者が悪気もなく車に乗って走り去っていった。
世の中には、車椅子の障害者は自分一人しかいないのできっと存在がわかってもらえず、不自由なことが当たり前なのかも知れないと思った。


車椅子に乗って二度目の夏を迎えようとするころ、一緒にラーメンを食べた看護師が電話をくれた。車椅子バスケットボールを見学に行こうという誘いだった。
どうせ、障害者が健康維持のためにボールを遊び程度に運動しているのだろうと考えていた。
この頃、筋力トレーニングは片手で25kg、両手で50kgのダンベルを持ち上げていたので、誰にも自分の真似は出来ないだろうと、いい気になっていた。
しかし、彼らの真剣に取り組む姿勢、激しい動きやぶつかり合い、素早い車椅子操作を見て、自分がいかに井の中の蛙だったかを思い知らされた。見学だけのつもりだったが、そのまま練習に参加すると、一気にのめり込んでいった。
毎回の練習を欠かさず、ついに一年後はキャプテンに任命されていた。
「自分はキャプテンの器じゃありません。」
「器は、自分で作るものだよ。」
そう先輩たちに言われると、次の言葉が思い浮かばずに、胸の奥がじ~んと熱くなった。この人たちの期待に出来る限り応えよう、そして、自分だけの新しい器を作ろうと心に誓った。
車椅子のタイヤを素早く動かすと、すぐにタイヤをがっちり握って停車させた。指の皮はむけ出血した。テーピングをしても、血がにじんできた。どんどん皮が厚くなり、指が太くなった。走る、曲がる、止まる、パスを繰り返して5人の連携でシュートに結びつける。
大きな大会に出場するたびに、こんなにたくさんの障害者がいたのかと思うほど車椅子バスケットボールの競技人口は多かった。栃木のチームは中クラスの強さだったが、メンバーの若返りが急がれていた。しかし、世代交代がうまくいかずに若手だけで、新しいチームを作り、そこのキャプテンになった。
「うちは、勝つためのチーム作りをする。そして、そのための練習をする。ついて来れないと思ったら、前のチームに戻ってもいい。」
そう言って、チームが創設された。